タカシは生ぬるくなったコーヒーを口に含み、キーボードの『Enter』を無感情に叩いた。画面が更新され、数分前には存在しなかったはずの、完璧な文体と緻密なグラフで構成されたプレゼン資料がズラリと並ぶ。
屋上の重いドアを押すと、ぬるい夜風がタカシの顔を撫でた。
眼下に広がる都市の明かりは、巨大な回路基板のように規則正しく明滅している。どこかのビルでも、どこかの部屋でも、無数のモニターの前で誰かがAIの提示する「最適解」を検品し、疲弊した目をこすっているのだろう。
「やっぱり、ここか」
背後でドアが開き、足音が近づいてきた。ミナミだった。手には缶コーヒーを2つ握っている。
「チャット無視して逃げるなんて、入社以来じゃない?」
彼女は苦笑しながら、冷えた缶をタカシに差し出した。
「悪かったよ。……ただ、少し息が詰まったんだ」
タカシは缶を受け取り、プルトップを引き抜いた。微かな金属音が夜の空気に溶ける。
「わかるよ」
ミナミは手すりに寄りかかり、夜景を見つめた。
「私もね、時々怖くなるの。私たちがやってることって、AIが吐き出した膨大な『正しさ』のゴミ山から、一番マシなものを拾い集めるだけの仕事なんじゃないかって」
「ゴミ山、か」
「言葉は悪いけどね。美しくて、破綻がなくて、でも誰も心の底からは望んでいないアウトプット。それを人間が承認して、ハンコを押して、次のプロセスに回す。AIが作るスピードに追いつくために、私たちの『判断』まで機械みたいに高速化されていく」
彼女は一口コーヒーを飲み、自嘲気味に息を吐いた。
「回し車を止めたら、車輪に巻き込まれて潰される。だから走り続けるしかない。……でもね、タカシ。私、さっきの87件の提案の中に、1つだけ気になるところがあったの」
タカシはミナミを見た。
「87件のうちの86件は、過去の文献や特許を組み合わせた、文句の付けようがない優等生なアプローチだった。でも、1本だけ……AIのパラメーターが狂ったのか、脈絡のない異物を混ぜ込んできたやつがあったの。論理的には破綻してるし、成功確率も計算不能。普通のスクリーニングなら、即座にノイズとして捨てられるような案」
「ノイズ……」
「そう。AIにとっては単なる『計算のエラー』か『精度の低い出力』。でもね、それを見たとき、ひさしぶりにゾくっとしたの。『なんだこれ、意味が分からないけど面白い』って。昔、私たちが徹夜で議論して、疲れ果てた頭で出たバカバカしいアイデアに似てた」
タカシは胸の奥で、小さく火花が散るのを感じた。
生成AI時代のジレンマ。それは、人間がAIのスピードに合わせて車輪を回す奴隷になることではない。
AIが弾き出す「完璧な統計的平均」に安心し、人間自身が「ノイズ(無駄や不合理)を恐れるようになること」こそが、本当の罠だったのだ。
未来を切り開くのは、最適化された正解の量ではない。
完璧な計算の隙間に落ちている「エラー」を拾い上げ、「これはエラーじゃない、未来の種だ」と面白がれる人間の偏執的な眼差しだけだ。
「……ミナミ、そのノイズの案、見せてくれ」
タカシは缶コーヒーを飲み干し、決意を込めて言った。
「いいけど、役員会向けの87件のチェックはどうするの?」
「全部『不採用』で送り返す。代わりに、その狂った1件だけを、俺たちの言葉で書き直して持ち込もう」
「正気? 怒られるわよ。『AIなら1分で終わる作業に、なんで一晩かけて1件しか出せないんだ』って」
「言わせておけばいい」
タカシは笑った。ひさしぶりに、自分の意思で口元が緩むのを感じた。
「回し車をどれだけ速く回したって、どこにも行けない。だったら一回降りて、車輪の軸を叩き折るしかないだろ」
ふたりは顔を見合わせ、短く吹き出した。
屋上のドアを開け、再びオフィスへと戻る。
室内では相変わらず、何十台ものモニターが青白い光を放ち、AIがミリ秒単位で「完璧な過去」を生成し続けていた。
だが、タカシの目にはもう、それが恐怖の対象には映らなかった。
それはただの、巨大で無機質な素材の山だ。
その山の中に隠された「美しきエラー」を奪い取るために、タカシは再びキーボードの上に手を伸ばした。